孤独と坐禅

心理学者のユングは人付き合いの多い人、少ない人に分けて以下の実験をしたそうだ。

喫煙率

人付き合いの多い人…7.9%

人付き合いの少ない人…13%

 

アルコール接種(20g超)

人付き合いの多い人…14.1%

人付き合いの少ない人…23.4%

 

そして死亡率は少ない人は多い人に比べ1.2倍とか。

つまるところこれらの行為の根本になる原因は「孤独」だ。

 

SNSの普及に伴い、人は疑似的につながっていると思いがちだが、それはまったくの妄想で孤独には変わりはない。もっとも人は生まれてくるときも死ぬときも独りなのである。

 

坐禅はそんな自分と向き合える時間でもある。

さみしい自分に「なれる」時間である。

さみしい自分を見つめるのではなく、さみしい自分に「なる」のである。

 

孤立と独立は違う。

孤立するからさびしいのだ。

独立した人生を歩みたいものだ。

 

 

おまけ。

だいやめ的坐右の書(その一)

原田雪渓著 「The 禅」

 

曹洞宗のヨーロッパ官長時、現地での提唱を書き起こしたもの。坐禅の提要を雪渓老師が優しく説く。

修行に決着を目指すガチの参禅者必携の書。絶版につきプレミアがついてるのが痛いところか。

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ミソジニー

ミソジニー
聞き慣れない言葉だが、意味は女嫌い。
今回はこのミソジニーの考察。

 

釈尊ミソジニーだったという説がある。
原始仏典に明るい方ならピンとくるだろうが、かなりの罵詈雑言を女性に対して浴びせている。

「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」
(スッタニパータ835)

 

これなどまだいい。

 

「世尊は、長老に「女には、九つの悪い属性がある」とおっしゃった。
その九つの悪い属性とは何か。
女は、
1、汚らわしくて臭く
2.悪口をたたき
3.浮気で
4.嫉妬深く
5.欲深く
6.遊び好きで
7.怒りっぽく
8.おしゃべりで
9.軽口である 」
(増一阿含経41)

とまあコテンパンにやっている(´・ω・`)
*異説あり


男性の性欲はかなり強い煩悩なのはお解りだと思うが、出家者がこれを克服するのはさすがに容易ではない。
これを克服すべくが不浄観なのだが、釈尊の時代は肉体が朽ち果てるのを見届けるべく、墓場の修行が通例だったようだ。
日本と違い火葬ではなく、土葬なので効果抜群なのである。

 

あとチベットの鳥葬も有名である。
死体を鳥が食べやすいように適当に切れ目を入れておく。すると二分も経たないうちに鳥があれよあれよと食して死体は白骨化する。まあ見事なものだ。

 

とまあなんとも男性の修行者は涙ぐましい努力をやってきた。
初期仏教の実践とは人間という生物の放棄、そして狂気とも言えよう。

 

でもそうは言っても釈尊当の本人は離婚はしていない。
それを考えると釈尊の女性蔑視の発言は本音ではなく、出家者への戒め、方便だったのかも知れない。

 

もっとも好きの反対は嫌いではないどころか好きのうちである。
女嫌いというのはこころのなかにその気が存在しているのは事実なんだよな。
女性が気にかかっていることに他ならない。

 

面白い故事を一つ。
とある川辺で師僧と弟子が修行をしていた。
そこへ若い女性が川を渡ろうとしていた。
師僧は若い女性を抱きかかえ、川を渡ってやった。
それをみた弟子は「僧の身でありながら女性に触れ、抱くとはなんということでしょうか!」と師僧を問い詰めた。
師は答えた。
「なんだ?お前はまだ女を抱いておったのか?」

 

好きの反対は「気にならない」なのだ。

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運は開けるのか。

人は弱い生き物だ。自分の願望を成就するよう祈る。
そして自分の願望が成就するように、神に仏に祈る。運が開けるようにと開運グッズを身につける…
今回はこの運についての考察。

 

Aさんが開運ブレスレットを購入した。
その後、宝くじを購入、そして当選した。
Aさんは宝くじが当たったのは開運ブレスレットのおかげと言っているのだが…
果たして開運ブレスレットは宝くじの当選を導いたのであろうか?

 

実に単純なことなのだが、Aさんは「開運ブレスレットを買わなくて宝くじを買った結果」を見ることができない。そう「開運ブレスレットを買ったこと(人生)」を選択しているからだ。と、いうことは開運ブレスレットを買わなくても当たっていた「かも」知れない。
すなわち、開運ブレスレットにより宝くじが当たったことを導くことはできない(開運ブレスレット=当選は帰結しない)。

 

上述の通り、お守りや開運グッズがその効能を果たしているかは証明できない。これは神や仏への祈願も同じことで、祈願しなかった結果を見ることができないからだ。

ちなみにだが、釈尊は祈祷の類を禁じたのは有名な話。

「たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。そのとき、そこに大勢の人々が集まり来たって、「大石よ、浮かびいで よ。浮かび上がって、陸に上れ」、と祈願し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、汝はいかに思うか。その大いなる石は、大勢の人々の祈祷合掌の力 によって、浮かびいでて陸にあがるであろうか。

たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に、油のつぼを投じたとするがよい。そして、つぼは割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。そのとき、 大勢の人々が集まり来て、「油よ沈め、油よ沈め、なんじ油よ、水の底に下れ」、と祈りをなし、合掌して、湖の回りを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。その油は、人々の合掌祈祷の力によって、沈むであろうか。」
仏陀 サンユッタ・ニカーヤ 増谷文雄訳)

 
神社にはお守りが所狭しと売っているが、実はお守りの祈願の文言(交通安全等)通りに成就を期待するのではなく、その文言を見る度に「気づき」になればそれがお守り「代わり」になるのではないのか。「気づき」が最大のお守りではないかと思う。

 

そして何より、物事にあたりはずれはそもそも「ない」んだよね。

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怠るべからず

釈尊の一番弟子であり、二十五年間も側近を務めたアーナンダ。
彼は釈尊の説法を一番聞いていた人物でそれゆえに「多聞第一」と言われていた。
釈尊亡き後に、世尊の言葉を後世に残そうと当時の阿羅漢らが結集した。これが経典の起こりであり、第一結集と言われたそれである。
当然、アーナンダの参加を希望する声が多かったのだが、彼は阿羅漢果に達していなかった。

 

第一結集の前夜、アーナンダはいつものように瞑想に更けていた。行住坐臥、すべてに気づき(ヴィパッサナー瞑想)を怠らなかった。
しかし、朝方になっても変化なし。疲れ果て横になろうとした瞬間、アーナンダは阿羅漢果を得たのであった…。

 

なぜアーナンダが瞑想中ではない瞬間に阿羅漢果に達したのか。
この見解が実にさまざまだ。
ミャンマーの大長老、マハーシ・サヤドー師は自身の著である”ヴィパッサナー瞑想”の中で「悟りはいつ起こるかわからない。よって常にヴィパッサナーすべきである」と締めている。
でも阿羅漢果を得た瞬間はヴィパッサナーしていない時に起こったのであり、的を得た回答とは言い難い。

 

これは禅からだと説明しやすい。
ヴィパッサナー中は作為的であるが故に、阿羅漢果を得られなかった。横になろうとした瞬間、つまり無作為(ヴィパッサナーを止めた時)になった瞬間にはじめてアーナンダは「わかった」のである…。

 

とまあいろいろ解釈があるのだが、文献を見てみると坐禅や瞑想中に悟ることって実に稀なんだよな。それは釈尊ぐらいのものだろうか。アーナンダのそれのように、過去の聖人のほとんどが坐禅や瞑想中以外の時に悟っているのが面白い。

 

兎に角、いずれにしても怠るなと言っているわけだ。
世の中にはここからが本業、ここからが副業という考え方やオンオフなどと「思考」の上で時間を区別したりする。
しかし、すべては自分の時間であり、一生であり、その時間に本も副もオンオフもない。また人間は前回に書いたように「今」にしか生きれないのに。

 

求道者ならばすべての時間を懈怠してはならないのではないか。アーナンダのそれは思想を超えてそう説かれているのではないかと思うのだが。

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時間についての独り言

時間についての独り言

我々は厳密にいうところの「今」を認識できない。
認識できるのは過去と未来、そしてそれは形骸化したもの、すなわち妄想と化している。よって”いまに気づく”などとよく聞くが、正確に言うならば誤謬になると思う。

そんな人間は今は認識できないが、今しか生きることができない。

今回はそのいまが連続したもの、時間。
その使い方についての考察。

 

時間というものは止められるものでもなく、預けられるものでもない。また逃げられるものでもない。よって我々は時間を「使わない」といけないわけだが、同じ使うなら「自分を使わない」時間に越したことない。

若いころは自我(我語取)が強いので、自分の時間=「自分の好きなことができる時間」と考えている。でも時間そのものには自分の時間、他の時間もないわけで、すべて自分の時間となる。遊んでいる時間、仕事をしている時間、すべて自分の時間だ。

 

この「自分の時間」というのが曲者で、坐禅に親しんでくると前述でいうところの「自分の好きなことができる時間」が疲れの原因でもあることがわかってくる。時間が余ると時間を潰す作業が必要になる。時間が余ったので捨てるということができないからで、あらゆる思考を駆使して時間を潰す作業をしている。長期休暇が余計疲れるのはこのせいだ。

 

さて、時間の使い方なのだが…

例えば、
・いつも車で行くところをあえて歩いて行く。
・掃除機を使わずに掃除をする。
・カットを野菜を買わず、野菜を切る。
・洗車機を使わずに洗車をする。

などなど、工夫すればいろいろ「時間を使う」ことができる。瞑想されている諸兄は上記の作業が瞑想対象となるのはおわかりだと思う。

 

結局、人間は手間を科学やお金等の力で省いているわけだが、実際のところ手間を省くまでもすることが多いわけではない。


手間を省くことで暇を作り、時間を余らせる必要はない。死んだ時間(我語取にとらわれる時間)、また妄想にふける時間を得ているだけではないかとつくづく思う。

 

 

テーラワーダ完結編

第三回だいやめ座右の書的一冊

今回もテーラワーダ、そして完結編です。

 

呼吸によるマインドフルネス(ブッダダーサ比丘著)・サンガ出版

ブッダダーサ師(プッタタートの方がお馴染みだろう)は瞑想実践者の間では有名な方であり、いまさら説明は必要ないかと思う。詳しく知りたい方はwikiを参照されたい。翻訳はタイからのブログでお馴染の浦崎雅代氏と星飛雄馬氏。

 

さて瞑想初心者がいきなり前半に取りかかるときついと思う。

翻訳には直訳と意訳、逆訳があると思うが、法話に関しては直訳が多く?、一読して自分なりに意訳せねば腑に落ちないだろうと思う。

ここに訳者の苦労が伺えると思うのだが、幸いにして後半にサンティカロー比丘が 「修行のための要約とアドバイス」を説いており、具体性に乏しい法話を補完している。

 

またパーリ語が頻繁に登場するのも難所の一つであろう。巻末に用語集はついているものの、パーリ語に不馴れな読者はその言葉がいったい何に相当するのか、自分の知識(仏教)の中でどれに近いのか吟味する必要が出てくるので、腑に落ちるまでに時間がかかると思う。(ちなみにブッダダーサ師は最低限パーリ語の用語理解だけは求めている。彼は同じ言葉でも俗世間の言葉(ヒト語)と仏教語の区別を厳格化していたからかも知れない。)

 

本書は言うならば、“堅焼きポテトチップス“的な一冊である。非常に歯応えがあり、後に旨味を増すといったところであろうか。

 

瞑想をやってみようかなと軽い気持ちの方にはお勧めできない。
中級者や真剣(原題はfor SeriousBigginerと書かれている)に取り組む方向けだろう。

 

マンドフルネス・サンガ出版

マインドフルネスを超えて・サンガ出版

8マンドフル・ステップス・サンガ出版

著者はバンテ・H・グナラタナ、訳はアチャン・チャー法話集でお馴染の出村佳子氏。

マインドフルネスはヴィパッサナーを担当、二作目のマインドフルネスを超えてがサマタ、そして8マインドフル・ステップスが八正道を担当している。

出村佳子氏の良訳でサクっと読み進めることができる。難しい表現等もない。もうこの三冊を揃えておけばいいのでは?という充実ぶり。ヴィパッサナー、サマタそして人生を歩む指針となる八正道、すべて解説されている。

 

ヴィパッサナー瞑想(マハーシ・サヤドー著)・サンガ出版

これも品切れが続いた。いわばミャンマーの大長老が贈る瞑想の指南書。

瞑想に興味深い方はお分かりかと思うが、いわゆるラべリングに特徴のあるマハーシ式ヴィパッサナー瞑想の教科書である。

 

内容は前半は理論編、後半は実践編となっている。

理論編は駆け足で仏教(アビダルマ)の解説。もちろん解っている方は読み飛ばして構わない。これを機にもう少し知りたいとか興味が沸いた方は
“存在の分析「アビダルマ」”(仏教の思想シリーズ・角川ソフィア文庫)
に詳しい。また佐々木先生の
仏教は宇宙をどう見たか―アビダル仏教の科学的世界観“
で研鑽を深めるのも良いだろう。

実践編は非常に簡要に書かれているので、瞑想中にもサッと参照できるのでありがたい。それもそのはずで、翻訳者は現地での瞑想センターで修行経験もある星飛雄馬氏が担当されている。またアドバイザーとしてこれまた現地日本人比丘のウ・コーサッラ長老をお招きしている。
つまり単なる訳本の類いを超えた、本物の実践本と言えるだろう。

 

自由への旅(ウ・ジョーティカ著)・新潮社

待望の書籍化。翻訳は魚川祐司(ニー仏)氏。
ニー仏氏曰く、世界最高の瞑想の指南書。

 

 

以上、二回に渡ってテーラワーダ関連を書いてみたが、私自身がタイ仏教に傾倒しているのがよくわかった(^^;

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テーラワーダ編その①

第二回 だいやめ座右の書的一冊

今回はテーラワーダ編。
大好きなアーチャン・チャー師から。

 

まずは大ヒット作。

[増補版]手放す生き方・サンガ出版

この本を読まれた方はとにかく多いと思う。
翻訳はミャンマーでの瞑想修行の経験をお持ちの星飛雄馬氏。
一時期、アマゾンでは在庫切れが続いた。

 

読んで驚いたのはやたら"空"という単語が出てくるところ。苦、無常、無我を説くものと思いきや…だ。
思想的というかアーチャン・チャー師の境地では"空"が一番適切なのかも知れない。”手放す生き方”だが、なんとも手放せない一冊になるだろう。

 

そして、続編がこちら。

無常の教え・サンガ出版

翻訳は前作と同様、星飛雄馬氏。
内容は前作よりも高度なものとなる。

 

40の短編法話集になっており、それを六つの章にカテゴリー分けしている(無常、苦、無我、瞑想など)。
一日一法話読むもよし、瞑想する前に読むのもいいだろう。

 

ダンマが少しずつ理解されてくると、世俗との考え方や価値観のギャップが拡がってくるのは否めない。その時に在家僧の説法や本を読んでも腑に落ちるものがほとんどなくなってくると思うのだがいかがだろうか(本物の方の説法が聞きたいものだが、そんな方は表舞台には出てこないものだ)。

そんな時にこのような"眼のある人"の法話はとてもありがたく、さらに修行を邁進させる起爆剤にもなるし、気づきも多いと思う。


ちなみにアーチャン・チャー老師は"常ならず"が口癖だったそうだ。
お弟子さんはこの言葉しか言わない師に辟易していたようだが、やはりダンマはこの言葉に尽きる。無常と観ない(正見)から苦しむのであって、親が子供に大事なことを口うるさく言うそれと同じなのだ。
釈尊も原始仏典で何度も説かれている。
”「一切の形成されたものは無常である」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。”
(ダンマパダ277 中村元訳)


訳者は前作同様、星飛雄馬氏が担当。
星氏の翻訳は解っていらっしゃるだけにたびたび膝を打つことうけあいだ。

この本のサブタイトルは"苦しみの終焉"である。
なんと希望に満ちた言葉だろうか…
少なくとも苦しみの"軽減"につながる一冊である。

 

アチャン・チャー法話集・第一巻~戒律~・サンガ出版

戒・定・慧の三部作となる予定の第一弾。
翻訳は優しい口調で定評のある出村佳子氏。

出村氏の翻訳はとても自然で、アチャン・チャー師の説法が真綿に水が染み込む如く…心に届く。

続巻が待たれるが、現時点で発売予定のアナウンスは…ない。

 

総じてだが、アーチャン・チャー師の本は瞑想のテクニカルな部分に関しての言及はほとんどない。修行においての瞑想の捉え方、立ち位置についてだけ言及している。

われわれのライフスタイルは修行僧と違う。瞑想漬けではないわけで、瞑想(坐って)しない時間のウエイトが大半を占める。

アーチャン・チャー師の説法は瞑想(坐って)をしない時間の瞑想、いわば日常生活時においての気づき(ヴィパッサナー)を主に説かれている。

我々の生活に生かしやすい説法だと思う。