気づきのブログ

本や気づいたことを書き留めております。

このブログ、そしてtwitterを終わります。

自分の幸せについてはとうの昔に決着はついていたのだが、ある日にいろいろな探求や悩みもなくなってしまった。

と同時に森羅万象、この世の一切のものに悲哀するようになった。そして仏教(宗教)、禅、思想にも関心がなくなった。


そんなわけで、twitterのアカウントも閉鎖しようと思ったが、やはりこのままにしておきます。

 

もしもあなたが悟りたい、決着をつけたい、解脱したいという思いや信念があるのならば、いま一度坐禅や瞑想に問うたほうがいい。

それは坐ることでもあるのだが(機が熟してないとの見方もあるだろう)。


どうしてもそれがあるのならば、あなたは矛盾している。

それに早く気づいて欲しい。

最後にこれだけは言いたかった。みんなに幸せになってもらいたいから、早くあなた自身に安心してもらいたいから。

 

自分のことは解決できた。

が、その解決方法(禅や瞑想、仏教)を人に勧められるかと問われるととても勧められない。

ほとんどの方はそういうものに懐疑的だし、ピンとくる方にしか勧められない。

そういうもの(禅、瞑想、仏教)を使わずに解決方法を人に伝えられないものかしばらく模索したいと思う。

 

いろいろ探求して二十年弱。

いままでありがとうございました。

そしてこれからも。

 

提唱集⑱

自分の真相に気が付いて見ると、色んなことがはっきりしてきますから、こういうようなものも残されるのだけれども、例え気が付いても、こうやって眺めることをあまりしない方がいい 。自分の内容を人に説こうと思うと言語を漁るようになるから、できるだけそれをせずに、しばらく自分の至った悟境に、お悟りの境涯にそのまま身を置いておくと、より一層ものがはっきりするので、もしそういう方があったら 、手をさらに付けずに、今までどおり手を付けずに 。宝物が見つかると、自分が気が付くと、「絶対人に言わないで 」とは言うのだけれども、「今から話すことは絶対人に言わないで 」と言って話すくらい、古来ほとんどの人が、外に向かって人に自分の喜びを伝えたくてしょうがなくなるような衝動に駆られる 。まあ、それくらい一生懸命やっていて気が付けば、嬉しいに違いない 。同時に、自分がそういうことに気が付くと、先人が喋っているよりも、もっとよく自分で内容がわかるから黙っていられない 。喋りたくてしょうがない 。

 

私の師匠 (井上義衍老師 )なんかでも、よく言っておられた。飯田欓隠という老師のところについておられたけれども、老師と一緒に老師の講演会について行くと前座を賜るのでしょうけれども、老師の喋る時間も全部取ってしまうくらい 。だから老師は下で、「いつになったら終わるのかな 」っていうくらい、それでも任せて眺めておられたっていうことを、よく言っていました 。人なんか用ないのですよね、よくわかるから 。そのくらい自分で力が付くものだから、ついやるのだけれども、しばらく経ってみると恥ずかしかったなと思うようになるのですよね 。うん 。燃えている時には、わからない 。で、それをあんまり野放しにしておくと、はた迷惑になるので静かにすることです 。間違えると、少し気がおかしくなったんじゃないかと思われるくらい、激しい人は激しいですよね 。で、人にも叱咤激励をする。「こんなことに気が付かないのか 、何しているんだ 」ってなことで、推めてくれる。それは有難いのだけれども、はた迷惑もいいところですね。しばらく自分一人でこっそり美味しいもの食べていて欲しい 。(貫)

 

 

 

 

 

LINEでの会話を転載しました。

悟りというものは現在不満足があるから存在するものだとつくづく痛感しました。
いわば病人が健康の存在を考えるようなものかなと。
現在、いやこの瞬間に満足できる人ならば悟りというものは存在しないです。
これが心底徹底できると不満足も満足もなくなります。
健康な人が健康を考えないのと同じです。

 

この世のすべてのものは完璧です。
手のつけようがありません。
カアカアはカアカアで完璧ではありませんか(言うことがない)。
満足も不満足もありません。

 

不満足の発生元は思考(習慣的無意識)です。思考の上でのみ不満足が存在します。
すなわち″欲しい″、″したい″(悟り、解脱も含む)などの思いがあるのならば、不満足があるわけで今に親しくないことにもなります。とにかく坐りまくりましょう。

 

また修行中はtwitterSNSで発言するのは控えたほうがいいです。
分別の正体は言葉です。
言葉があるから我々は思考する、思考ができるんですよ。どんな正論でも所詮は言葉にすぎません。わかるのを漢字で書くと「分かる」です。分けていること(分別)になります。
とにかくこれから離れなくてはならない。
他人の発言も読むのも分別、それに応答するのも分別です。とにかく言葉を相手にしてはいけません。老師が修行中はしばらく本を読むなとか、長期摂心で修行者同士の話を禁ずるのも当然のことだと思います。

そしてなんといっても自我(エゴ。私があるという前提。無明)を強めます。
エゴがない人間は言うことがありません。聞いてるだけです。
我々はいままで生きていた習慣で思考主体=自分という習慣的無意識ができあがってます。それに気づくことなく、発言しています。そして自分の発言に対してフォロワーのリアクションを待っているのならば重症です。自我を強化しているわけですから。
SNSの怖さはこれです。

ところが、思考主体=自分ではないと見切ると発言は不毛に感じるはずです。
これは坐禅やヴィパッサナーでわかるはずです。
(日常生活における会話はこの限りではありません)。
これに気づいた方は過去に何人かいらっしゃいまして、丁寧なご挨拶を最後にSNSを辞めていかれました。まして老師がSNSをしないのは当然かと思います。


twitterSNSする暇があるなら、目の前の仕事をする、坐禅する、とにかくいまの自分に親しくしたほうがいいです。修行中だけでも。
そういう方は何人かいらっしゃいます。

 

そして、ほとんどの方はこの状態になると安心(あんじん)して坐禅を辞めるのでしょう。安心すると何ら求めなくなりますから。

無題。

正直に言うとある時を境に悟りとかなくなった。

「なんだよ、いまのままでいいんじゃん。完璧じゃん」って一人で大笑いした。

 


そっから求めるものや欲しいものがなくなった。

だから悟りとかもなくなったのかもね。

女性蔑視と観音信仰

www.afpbb.comなんとも言葉が出ないニュースなのだが、日本でも昔はお世継ぎを考えて男児の出産が好まれていたような。
姫君に男児が授かると殿が「でかした!」というあれだ。

さてこのニュースの一報を聞いて、観世音菩薩を思い出した。
観世音菩薩は男性でも女性でもなく、中性で描かれることが多い。男性ならば男性の苦しみが、女性ならば女性の苦しみがあるわけで、それならば性別がないほうがいいと考えられたようだ。
観音さまはそもそも阿弥陀如来の脇侍を務める菩薩でもあるが、阿弥陀如来の化身とも描かれる。

 

そういえば西方に阿弥陀如来の浄土があるように観世音菩薩の浄土もあるのではないかという民間伝承があった。観世音菩薩の浄土=ポータラという。ポータラは確かサンスクリット語だったと思うが、これを音写したのが補陀落

この観世音菩薩の浄土を目指して捨て身行をするのが、補陀落渡海。熊野(和歌山)の修験道では常套行だった。 この補陀落渡海用の船をリアルで見たことがあるが、まさに船の形をした棺桶。 観世音菩薩に会いたいという一念でこのような自殺とも思える行を昔の人たちはやっていたわけだ。

補陀落渡海 - Wikipedia

 

このような捨て身行は古来他にもいっぱいあるが、真言宗即身仏も凄まじい。
死期を感じた僧が地面に穴掘り、その中で瞑想や読経の三昧に入る。同時に断食もするわけだが、その間に漆を飲む。 漆はどうやら死体の腐敗を防ぐらしく、見事なミイラ(即身仏)が出来上がる。
弘法大師が唐から招来した伝承だろうが、まあよく考えたものだ。

このミイラ(即身仏)で有名なのが鉄門海だろう。真言宗の僧だった彼はイケメンで非常に女性にもてたという。 出家した後も女性が彼を訪ねてお寺に押し寄せた。悩んだ彼は自分の男性器を断ってその女性に渡したという。 なんという豪傑だろうか。

歴史秘話ヒストリア ・即身仏 / 鉄門海・江戸時代後期 - 動画 Dailymotion

 

いまはスマホで気軽にエロが入手できる時代。
鉄門海のような漢は絶滅危惧種だろうな。

 

空海コレクション 1 (ちくま学芸文庫)

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法然親鸞一遍(新潮新書)

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正しく坐る。

坐禅で一番大事なことは正しく坐禅できているのかにつきる。正しく坐れていないのであれば形だけの坐禅に他ならないわけで、ただ坐ってむやみに時間を過ごしていることにもなるだろう。

正しく坐禅できているのか否かは正師を探し、見てもらう必要がある。人間はそもそも自分を見ることができないわけで、我流だと上手くいってるいってないがまずわからない。最悪、東に行きたいのに西に行っているかもしれない。 禅師(道元)は正師の元以外で坐禅するなとさえ警告されている。

ちなみに正師の定義は
「若し無上の仏道を学ばんと欲はば、遥かに宋土の知識を訪うべし、迥に心外の活路を顧みるべし。正師を得ざれば学せざるに如かず。夫れ正師は、年老耆宿を問わず、唯だ正法を明らめ、正師の印証を得るなり。文字を先とせず、解会を先とせず、格外の力量有り、過節の志気有り、我見に拘わらず、情識に滞らず、行解相応す、是れ乃ち正師なり。」(道元 学道用心集より)

禅師は当時の日本に正師が不在とし、宋(当時の中国)まで行って正師を探している。はなはだ頭が下がる思いである。その苦労の結果、天童山の如浄禅師とご縁があり、如浄禅師指導の元で決着をつけ日本に帰国した。
また、
「さらに草鞋を買来買去して、正師をもとめて嗣法すべし。」(道元 正法眼蔵より)
とあるように正師とはそれだけ得難い存在なのである。
(余談だが、世の中には二通りの印証がある。一つは本山で修行をしたという証。いわゆる卒業証書のようなもの(寺院開業に必要)。もう一つは上記に書かれている正法の印証。どちらが重要かはいうまでもないだろう。)

さて、正しく坐れるようになると、いろいろな疑問や思いが去来するだろう。
これだと思ったり、つかんだり…これを書き留めておく。
そして定期的に禅会に行く。

そこで書き留めたものを独参で正師にたずねる(参師聞法)。
なぜか。
一人で坐っているとつかんだものやこれだと思ったものを大事にしてしまう。そのものに「自分勝手に」解釈をしてみたり、それを真髄などと勘違いしてしまうから(無我だの空だのサマディなどとにかく勝手に解釈してしまう)。

「得た法(ダンマ)と得た人がある、まさに大病なり。」
正師とは釈尊が医王と言われたように大病を治療してくれる医者そのものだろうな。

弟子:質問です。サマディに入ったのですが…
老師:そうか。ところで朝飯は済ませたのか?
弟子:済ませました。
老師:では食器を洗っておきなさい。

 

 

道元 「小参・法語・普勧坐禅儀」 <全訳注> (講談社学術文庫)

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禅ー世界を魅了する修行の系譜ー(サンガジャパンVol.27)

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The・禅―ダルマは世界を駆ける

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提唱集⑰

「この法は、人々の分上にゆたかにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」道元 弁道話より) 

 

こうだと言って決めるようなものは一切ないですよ。
ないんだけど、今のところは「パンッ(机を叩く)」、間違いなく確実「パンッ」、に決まっている。決まりながら跡形がない。跡形がないながら触れたら必ず決まる、そういう活動体です、これは(自分の体を指して)。

それを実践する、修行する、「本当にそうだ」と気がつくようになっている。

だから修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし
修するという言葉があったり、悟るという言葉があったり、気づくという言葉があったり、いろいろ言葉がありますが、本当に自分で胸落ちするってことですよ。
でもそういうことを知っている人がいる間は眺めてます。自分を。

その眺めている人がいないところまで体の全機能任せてごらんなさい。知っている人が必ず消滅するんです。
その真っただ中にいる人は気づかないってことですよ。真っただ中にいる時は気づかない。

よく話すんだけれども、熟睡したという時に熟睡してる時は気づかない。じゃあいつ気づくんですかというと朝目が覚めた時に気づくんでしょう。
気づいた時のことに用があるのではなくて、気づく前の様子が大事だということでしょう?
本当に熟睡できていたということは、気づく前の様子でしょう?
違います?知ったから熟睡したのではないですよ。
もう少し言えば認識、目が覚めた時に認識が動いてそこで自覚ということがあったということ。それを修と言ったり、悟りと言ったり、解脱と言ったり、確証を得たりといろんな表現をしています。

よくいろんな方がこの本はわかりやすいと送って下さるんですよ。ぱーっと開いてみたら悟りを開くにはどうしたらいいかと書いてあるんです。いっぱい線をひっぱって送ってきてくれました。この本わかりやすいから読んで下さいって。
全部知ってるんですよ。自分がどんなになっていったかを。状況を。
だからものと一つになりましたと言っているけど、ものと一つになりましたということを知っている。だからまだ人間の考え方から離れてないっていうことだよね。(井上哲玄老師)

 

禅 もう迷うことはない!―あなたの疑問を即快答

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