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時間についての独り言

雑談 瞑想 マインドフルネス 坐禅 ヴィパッサナー瞑想 独り言

時間についての独り言

我々は厳密にいうところの「今」を認識できない。
認識できるのは過去と未来、そしてそれは形骸化したもの、すなわち妄想と化している。よって”いまに気づく”などとよく聞くが、正確に言うならば誤謬になると思う。

そんな人間は今は認識できないが、今しか生きることができない。

今回はそのいまが連続したもの、時間。
その使い方についての考察。

 

時間というものは止められるものでもなく、預けられるものでもない。また逃げられるものでもない。よって我々は時間を「使わない」といけないわけだが、同じ使うなら「自分を使わない」時間に越したことない。

若いころは自我(我語取)が強いので、自分の時間=「自分の好きなことができる時間」と考えている。でも時間そのものには自分の時間、他の時間もないわけで、すべて自分の時間となる。遊んでいる時間、仕事をしている時間、すべて自分の時間だ。

 

この「自分の時間」というのが曲者で、坐禅に親しんでくると前述でいうところの「自分の好きなことができる時間」が疲れの原因でもあることがわかってくる。時間が余ると時間を潰す作業が必要になる。時間が余ったので捨てるということができないからで、あらゆる思考を駆使して時間を潰す作業をしている。長期休暇が余計疲れるのはこのせいだ。

 

さて、時間の使い方なのだが…

例えば、
・いつも車で行くところをあえて歩いて行く。
・掃除機を使わずに掃除をする。
・カットを野菜を買わず、野菜を切る。
・洗車機を使わずに洗車をする。

などなど、工夫すればいろいろ「時間を使う」ことができる。瞑想されている諸兄は上記の作業が瞑想対象となるのはおわかりだと思う。

 

結局、人間は手間を科学やお金等の力で省いているわけだが、実際のところ手間を省くまでもすることが多いわけではない。


手間を省くことで暇を作り、時間を余らせる必要はない。死んだ時間(我語取にとらわれる時間)、また妄想にふける時間を得ているだけではないかとつくづく思う。

 

 

テーラワーダ完結編

ヴィパッサナー瞑想 テーラワーダ サマタ瞑想 座右の書 マインドフルネス 瞑想

第三回だいやめ座右の書的一冊

今回もテーラワーダ、そして完結編です。

 

呼吸によるマインドフルネス(ブッダダーサ比丘著)・サンガ出版

ブッダダーサ師(プッタタートの方がお馴染みだろう)は瞑想実践者の間では有名な方であり、いまさら説明は必要ないかと思う。詳しく知りたい方はwikiを参照されたい。翻訳はタイからのブログでお馴染の浦崎雅代氏と星飛雄馬氏。

 

さて瞑想初心者がいきなり前半に取りかかるときついと思う。

翻訳には直訳と意訳、逆訳があると思うが、法話に関しては直訳が多く?、一読して自分なりに意訳せねば腑に落ちないだろうと思う。

ここに訳者の苦労が伺えると思うのだが、幸いにして後半にサンティカロー比丘が 「修行のための要約とアドバイス」を説いており、具体性に乏しい法話を補完している。

 

またパーリ語が頻繁に登場するのも難所の一つであろう。巻末に用語集はついているものの、パーリ語に不馴れな読者はその言葉がいったい何に相当するのか、自分の知識(仏教)の中でどれに近いのか吟味する必要が出てくるので、腑に落ちるまでに時間がかかると思う。(ちなみにブッダダーサ師は最低限パーリ語の用語理解だけは求めている。彼は同じ言葉でも俗世間の言葉(ヒト語)と仏教語の区別を厳格化していたからかも知れない。)

 

本書は言うならば、“堅焼きポテトチップス“的な一冊である。非常に歯応えがあり、後に旨味を増すといったところであろうか。

 

瞑想をやってみようかなと軽い気持ちの方にはお勧めできない。
中級者や真剣(原題はfor SeriousBigginerと書かれている)に取り組む方向けだろう。

 

マンドフルネス・サンガ出版

マインドフルネスを超えて・サンガ出版

8マンドフル・ステップス・サンガ出版

著者はバンテ・H・グナラタナ、訳はアチャン・チャー法話集でお馴染の出村佳子氏。

マインドフルネスはヴィパッサナーを担当、二作目のマインドフルネスを超えてがサマタ、そして8マインドフル・ステップスが八正道を担当している。

出村佳子氏の良訳でサクっと読み進めることができる。難しい表現等もない。もうこの三冊を揃えておけばいいのでは?という充実ぶり。ヴィパッサナー、サマタそして人生を歩む指針となる八正道、すべて解説されている。

 

ヴィパッサナー瞑想(マハーシ・サヤドー著)・サンガ出版

これも品切れが続いた。いわばミャンマーの大長老が贈る瞑想の指南書。

瞑想に興味深い方はお分かりかと思うが、いわゆるラべリングに特徴のあるマハーシ式ヴィパッサナー瞑想の教科書である。

 

内容は前半は理論編、後半は実践編となっている。

理論編は駆け足で仏教(アビダルマ)の解説。もちろん解っている方は読み飛ばして構わない。これを機にもう少し知りたいとか興味が沸いた方は
“存在の分析「アビダルマ」”(仏教の思想シリーズ・角川ソフィア文庫)
に詳しい。また佐々木先生の
仏教は宇宙をどう見たか―アビダル仏教の科学的世界観“
で研鑽を深めるのも良いだろう。

実践編は非常に簡要に書かれているので、瞑想中にもサッと参照できるのでありがたい。それもそのはずで、翻訳者は現地での瞑想センターで修行経験もある星飛雄馬氏が担当されている。またアドバイザーとしてこれまた現地日本人比丘のウ・コーサッラ長老をお招きしている。
つまり単なる訳本の類いを超えた、本物の実践本と言えるだろう。

 

自由への旅(ウ・ジョーティカ著)・新潮社

待望の書籍化。翻訳は魚川祐司(ニー仏)氏。
ニー仏氏曰く、世界最高の瞑想の指南書。

 

 

以上、二回に渡ってテーラワーダ関連を書いてみたが、私自身がタイ仏教に傾倒しているのがよくわかった(^^;

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テーラワーダ編その①

テーラワーダ 座右の書 マインドフルネス 読書 ヴィパッサナー瞑想

第二回 だいやめ座右の書的一冊

今回はテーラワーダ編。
大好きなアーチャン・チャー師から。

 

まずは大ヒット作。

[増補版]手放す生き方・サンガ出版

この本を読まれた方はとにかく多いと思う。
翻訳はミャンマーでの瞑想修行の経験をお持ちの星飛雄馬氏。
一時期、アマゾンでは在庫切れが続いた。

 

読んで驚いたのはやたら"空"という単語が出てくるところ。苦、無常、無我を説くものと思いきや…だ。
思想的というかアーチャン・チャー師の境地では"空"が一番適切なのかも知れない。”手放す生き方”だが、なんとも手放せない一冊になるだろう。

 

そして、続編がこちら。

無常の教え・サンガ出版

翻訳は前作と同様、星飛雄馬氏。
内容は前作よりも高度なものとなる。

 

40の短編法話集になっており、それを六つの章にカテゴリー分けしている(無常、苦、無我、瞑想など)。
一日一法話読むもよし、瞑想する前に読むのもいいだろう。

 

ダンマが少しずつ理解されてくると、世俗との考え方や価値観のギャップが拡がってくるのは否めない。その時に在家僧の説法や本を読んでも腑に落ちるものがほとんどなくなってくると思うのだがいかがだろうか(本物の方の説法が聞きたいものだが、そんな方は表舞台には出てこないものだ)。

そんな時にこのような"眼のある人"の法話はとてもありがたく、さらに修行を邁進させる起爆剤にもなるし、気づきも多いと思う。


ちなみにアーチャン・チャー老師は"常ならず"が口癖だったそうだ。
お弟子さんはこの言葉しか言わない師に辟易していたようだが、やはりダンマはこの言葉に尽きる。無常と観ない(正見)から苦しむのであって、親が子供に大事なことを口うるさく言うそれと同じなのだ。
釈尊も原始仏典で何度も説かれている。
”「一切の形成されたものは無常である」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。”
(ダンマパダ277 中村元訳)


訳者は前作同様、星飛雄馬氏が担当。
星氏の翻訳は解っていらっしゃるだけにたびたび膝を打つことうけあいだ。

この本のサブタイトルは"苦しみの終焉"である。
なんと希望に満ちた言葉だろうか…
少なくとも苦しみの"軽減"につながる一冊である。

 

アチャン・チャー法話集・第一巻~戒律~・サンガ出版

戒・定・慧の三部作となる予定の第一弾。
翻訳は優しい口調で定評のある出村佳子氏。

出村氏の翻訳はとても自然で、アチャン・チャー師の説法が真綿に水が染み込む如く…心に届く。

続巻が待たれるが、現時点で発売予定のアナウンスは…ない。

 

総じてだが、アーチャン・チャー師の本は瞑想のテクニカルな部分に関しての言及はほとんどない。修行においての瞑想の捉え方、立ち位置についてだけ言及している。

われわれのライフスタイルは修行僧と違う。瞑想漬けではないわけで、瞑想(坐って)しない時間のウエイトが大半を占める。

アーチャン・チャー師の説法は瞑想(坐って)をしない時間の瞑想、いわば日常生活時においての気づき(ヴィパッサナー)を主に説かれている。

我々の生活に生かしやすい説法だと思う。

キャバクラ豪遊の果てに。

雑談 十牛図

三月と言えば年度末。
年度末と言えば異動。
異動と言えば送別会。
そんなわけで何かと飲み会が多い時期でもある。

 

先日は送別会の二次会で友人のお気に入りのキャバクラへ。
友人は数年前から追いかけている意中の子がいるらしく、当然その子をご指名。今夜こそは決着をつけようと果敢にアプローチを開始。
その甲斐あってかデートの約束を取り付けることに成功した。

 

悲願の大願を果たした友人は嬉しさの余りに調子に乗り始め、大幅な時間超過に継ぐ延長、そして女の子にワインの大盤振る舞いなどの強行(いや狂行か)を開始…

坐禅ヴィパッサナー瞑想を実践されている諸兄はお解りだろう。彼はマインドフル”レス”の状態であるw

 

そして時は日が変わろうとしていた。
だいやめは身に覚えのない高額のワリカンを「入鄽垂手」の境地で応ずるのであった…

ティク・ナット・ハン編

瞑想 マインドフルネス 坐禅 原始仏典 大乗 座右の書

だいやめ座右の書的一冊

劇場公開が期待されるタイ師(ティク・ナット・ハン師)の「Walk with me」だが、現時点では日本公開は未定。どうもミニシアターでの上映になりそうな…

まあいずれにせよ、タイ師のご尊顔をシアターで見れるのは変わりはないわけで。

そんなわけで、第一回はティク・ナット・ハン師ものです。

 

まずはこれだろうか…

ブッダ<気づき>の瞑想・新泉社

マハーパリニッバーナ・スッタンタ(大般涅槃経)の
「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころにせずにあれ。」
仏教に親しみのある方ならご存知だろう。
そうお馴染の「自燈明・法燈明」のくだりである。

が、この後が実は重要で、
「では、修行僧が、自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころにしないでいるということは、どうして起こるのであるか?」
「アーナンダよ。ここに修行僧は、 身体ついて 身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いを除くべきである。」
と続いているのをご存じだろうか?
そうここから四念処の”身・受・心・法”が説かれるのである。

四念処経そのものの翻訳は中村元博士の原始仏典(中部シリーズ)や片山一良先生の中部経典で読むことはできるが、あくまでも翻訳に徹しており、具体的に何をすればいいのかの手ほどきはもちろんない。
当書は”その何をすればいいのか”をタイ師が優しく手ほどきしてくれる本である。

ちなみに現在、念処経の解説書はこれと前述の
片山一良先生著「パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ―『大念処経』を読む 2700円」

スマナサーラ氏著の大念処経 (初期仏教経典解説シリーズ 4212円)
しかない。

さて内容というと四念処経に大乗思想を加えての解説、実践となっている。つまり四念処+大乗思想が加わって、タイ師のマンドフルネスが出来上がっているのがおわかりかと思う。
もちろん原文も掲載されているので、釈尊がなんと説かれたのかも純粋に参照できる。
翻訳は優しい口調で定評のある島田啓介氏だが、禅僧でもある山端法玄氏も携わっている。

瞑想ブームではあるが、実は根本経典である”四念処経”やアーナパーナ・サティスッタ(安般念経)を読んでいない人を散見する。
ヴィパッサナーのメソッドだけが先行しがちで、何をしているのかが解っていない人もいるようだ。
そんな方へもお勧めする一冊でもある。
難解な表現等もなく、瞑想初心者でも十分読み進められるかと思う。

 

ブッダ<呼吸の瞑想>・新泉社

ブッダ<気づきの瞑想>に引き続き、二作目のこちらは呼吸の瞑想。
そうアーナパーナサティ・スッタ(安般念経)の解説書となる。

 

翻訳は前作と同様、島田啓介氏。
島田氏の翻訳はティク・ナット・ハン師の人柄を感じさせられ、まるで日本語で説かれているような錯覚にさえ墜ちること受け合いだ。

ちなみに最初は
「息を吸いながら、息を吸っていることを知る。息を吐きながら、息を吐いていることを知る」
ここからすべてが始まるのだ。

こちらも前作と同様、難解な表現等もなく、瞑想初心者でも十分読み進められる。
サティパッターナ・スッタ(ブッダ気づきの瞑想)とともにセットでどうぞ。

 

禅への鍵・春秋社

上記二冊は瞑想色が強いが、こちらはタイ師の本領?である禅のお話。タイ師の著作に触れて禅へ興味を持たれた方にはお薦め。タイ師が禅の何たるかを解説している。

訳者が上記二冊と違うせいか、かなり厳しい印象を受ける(訳は曹洞宗の藤田一照氏)。
外人向けに書かれているせいか、日本で言う禅的な匂いは感じられないと思う。
ロジカルに解説されているので、理屈で考えられる方は読みやすい一冊かと。

 

 

読書

読書 坐禅 雑談

恐ろしく本を買わなくなった。

ここ十年は月に一万は買っていたのに。

それもほぼ全部仏教書。

最近は本屋すら行かなくなった。

 

本を読むと何か隠された事実があるとか、奥義的なものがあるとか期待するんだよな。

 

確かにロジックでは理解できる。

が、それは考え方が整理されただけの話。

また高尚になることを目指すのではないわけで、それは最悪衒学的になる(これが多い)。

 

そして弊害もある。

書かれていることを探すようになる。

これが一番怖い(坐禅をされている方は痛いほどよくわかると思う)。

 

‪つまるところ本や提唱などで学んだらあとは坐るしかないんだよな。

それ以降はいくら読んでもわからない。

坐らないとわからない。‬

 

‪坐ることにより体が教えてくれる。‬

自燈明だな。

 

 

注)座右の書的なのはご紹介致します(^^;

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暇つぶし

坐禅 雑談 大乗

〜人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないかがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。(パスカル)〜

数学者でもあり、物理学者でもあるパスカルの言葉だが、これを読んだ時はほんとその通りだよなと膝を打ったものだ。

 

人は休日などで暇になると…
・ネットを徘徊→衝動買いしてしまい、散財
SNSをする→他人の投稿から自分を比較し、傷心したり妄想にふける
・外出し、事故に遭う
・ウィンドウショッピングのつもりがリアルショッピングに発展→散財

また暇になると人恋しさも募ってくる。

・外出し、キャバクラで散財、さらに実らない恋の果実にも手を出す

と、まあ部屋でじっとしていれば何も問題はなかったものの、暇をつぶすつもりが「つぶされている」結果に(´・ω・`)アチャー


さて、”現代坐禅講義―只管打坐への道(藤田一照著)”という坐禅の指南書のような本があるのだが、この中で藤田氏はパスカルが存命中だったら是非坐禅を勧めたいと言っている。

そう、坐禅だとお金もかかることなく、前述の暇つぶしのように弊害があるわけでもなく…なんだな。

坐禅や瞑想って究極の暇つぶしなのかも知れない。

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