坐禅日記④(2017年より)
人は一日に何万回って脱落してるのよ。
それに気づいていないだけ。
その決定的な瞬間があったどうかだけの話。
すると探すと探すんだよね。
坐禅日記②(2018年より)
○○になる為には○○しないといけないというのは思考だ。
その根底には時間が解決するという概念(思考)が横たわっている。
状態A→状態Bになるには時間が必要という考え方だ。
坐っていればいつか悟るだろうという思いがある限り、あなたは時間の中にいる。
何柱も坐れば悟るだろうという思いがある限り、あなたは当然時間の中にいる。
今日もよく坐ったと自己満足して終わりだ。
時間が解決するのだろうか。
時間ってなんだろうね。
このブログ、そしてtwitterを終わります。
自分の幸せについてはとうの昔に決着はついていたのだが、ある日にいろいろな探求や悩みもなくなってしまった。
と同時に森羅万象、この世の一切のものに悲哀するようになった。そして仏教(宗教)、禅、思想にも関心がなくなった。
そんなわけで、twitterのアカウントも閉鎖しようと思ったが、やはりこのままにしておきます。
もしもあなたが悟りたい、決着をつけたい、解脱したいという思いや信念があるのならば、いま一度坐禅や瞑想に問うたほうがいい。
それは坐ることでもあるのだが(機が熟してないとの見方もあるだろう)。
どうしてもそれがあるのならば、あなたは矛盾している。
それに早く気づいて欲しい。
最後にこれだけは言いたかった。みんなに幸せになってもらいたいから、早くあなた自身に安心してもらいたいから。
自分のことは解決できた。
が、その解決方法(禅や瞑想、仏教)を人に勧められるかと問われるととても勧められない。
ほとんどの方はそういうものに懐疑的だし、ピンとくる方にしか勧められない。
そういうもの(禅、瞑想、仏教)を使わずに解決方法を人に伝えられないものかしばらく模索したいと思う。
いろいろ探求して二十年弱。
いままでありがとうございました。
そしてこれからも。
提唱集⑱
自分の真相に気が付いて見ると、色んなことがはっきりしてきますから、こういうようなものも残されるのだけれども、例え気が付いても、こうやって眺めることをあまりしない方がいい 。自分の内容を人に説こうと思うと言語を漁るようになるから、できるだけそれをせずに、しばらく自分の至った悟境に、お悟りの境涯にそのまま身を置いておくと、より一層ものがはっきりするので、もしそういう方があったら 、手をさらに付けずに、今までどおり手を付けずに 。宝物が見つかると、自分が気が付くと、「絶対人に言わないで 」とは言うのだけれども、「今から話すことは絶対人に言わないで 」と言って話すくらい、古来ほとんどの人が、外に向かって人に自分の喜びを伝えたくてしょうがなくなるような
私の師匠 (井上義衍老師 )なんかでも、よく言っておられた。飯田欓隠という老師のところについておられたけれども、老師と一緒に老師の講演会について行くと前座を賜るのでしょうけ

真実、悟り、禅修行とは(1): 道元禅師『学道用心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録
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LINEでの会話を転載しました。
悟りというものは現在不満足があるから存在するものだとつくづく痛感しました。
いわば病人が健康の存在を考えるようなものかなと。
現在、いやこの瞬間に満足できる人ならば悟りというものは存在しないです。
これが心底徹底できると不満足も満足もなくなります。
健康な人が健康を考えないのと同じです。
この世のすべてのものは完璧です。
手のつけようがありません。
カアカアはカアカアで完璧ではありませんか(言うことがない)。
満足も不満足もありません。
不満足の発生元は思考(習慣的無意識)です。思考の上でのみ不満足が存在します。
すなわち″欲しい″、″したい″(悟り、解脱も含む)などの思いがあるのならば、不満足があるわけで今に親しくないことにもなります。とにかく坐りまくりましょう。
また修行中はtwitterやSNSで発言するのは控えたほうがいいです。
分別の正体は言葉です。
言葉があるから我々は思考する、思考ができるんですよ。どんな正論でも所詮は言葉にすぎません。わかるのを漢字で書くと「分かる」です。分けていること(分別)になります。
とにかくこれから離れなくてはならない。
他人の発言も読むのも分別、それに応答するのも分別です。とにかく言葉を相手にしてはいけません。老師が修行中はしばらく本を読むなとか、長期摂心で修行者同士の話を禁ずるのも当然のことだと思います。
そしてなんといっても自我(エゴ。私があるという前提。無明)を強めます。
エゴがない人間は言うことがありません。聞いてるだけです。
我々はいままで生きていた習慣で思考主体=自分という習慣的無意識ができあがってます。それに気づくことなく、発言しています。そして自分の発言に対してフォロワーのリアクションを待っているのならば重症です。自我を強化しているわけですから。
SNSの怖さはこれです。
ところが、思考主体=自分ではないと見切ると発言は不毛に感じるはずです。
これは坐禅やヴィパッサナーでわかるはずです。
(日常生活における会話はこの限りではありません)。
これに気づいた方は過去に何人かいらっしゃいまして、丁寧なご挨拶を最後にSNSを辞めていかれました。まして老師がSNSをしないのは当然かと思います。
twitterやSNSする暇があるなら、目の前の仕事をする、坐禅する、とにかくいまの自分に親しくしたほうがいいです。修行中だけでも。
そういう方は何人かいらっしゃいます。
そして、ほとんどの方はこの状態になると安心(あんじん)して坐禅を辞めるのでしょう。安心すると何ら求めなくなりますから。