気づきのブログ

本や気づいたことを書き留めております。

提唱集⑤

意識はぽっと出ぽっと消える、一秒二秒もないんです、それに栄養を与えるからわいわいもんもんです、一日悩まされノイローゼやるんです、ひいては心身症ですか、ぽっと出ぽっと消えるままにしときゃいい。

無心とはこれです、忘我ということはありますが、心意識が失せるんじゃないんです。大脳活動が停止したら発狂乃至一巻の終わり、そんなんじゃないんです、ぽっと出ぽっと消えるまんまにする、思いという心という一つこと、自分のすること自分じゃ見えない、それをとやこうやる二分裂です。もうないものにとっつく、有意識界妄想コングロマリットの、これが原因です。(川上雪担老師)

 

雪担老師語録

雪担老師語録

 

 

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質疑録⑤

前回の続き

老師:それが、すぐに「きれいだ」という一念があると、すぐ私したい。いいものはみんな自分のものにしたい。悪いものはみんな他人のものにしたい(笑)。人間大体そうでしょう。

そういう迷いがだんだん起きてくるんです。それですから、初一念というものは純粋なんです。出会い頭に喧嘩ができないというのは、そうなんです。いきなり殴ったり、蹴飛ばすなんてことは出来っこないでしょう。そんなふうに純粋なんです。どれも…。

 

ですから円覚経のなかに「一切の事にきょして妄想を起こさず」とあるでしょう。何に対しても妄想というのは、起こさずではなくて、起きんのです。

今こうして話しておっても、それがただあるというだけです。あるということは誰にでもあるんでしょう。聖人だって凡夫だって、これ(環境)とこれ(六官)との関係ですから、あるという事は同じなんです。

ところが、聖人はただそれだけでいくし、凡夫は二念、三念を接(つ)いでいく。そこに病を認めたんでしょう。認めたから取られやせんかとか、捨てて惜しいとか、次から次へ出てきて煩いになるのです。そして自分で責め、良ければよいで責め、悪ければ悪いで責めるということが起きてくるんです(衍)。

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質疑録④

問:美しい女性を見たと仮定して、それがきれいだというだけではなく、きれいだから触れてみたいとか、おいしそうだから食べてみたいとか、一番初歩的な欲望は本来清浄なものだと思うのです。いわゆる(欲)というのではなく、人間の持つ本質的なものと思うのですが、どうでしょうか?

老師:そう、すべてのものは最初から煩悩が起きんように出来ているんです。どの念だってポッと起きただけなんです。ポッと起きただけですからそれを使う余地はないんです。使わんのだから、良いのか悪いのか分からんでしょう。それへ第二念へ接(つ)ぐんです。ポッと起きたものに二念、三念接(つ)いで、いいとか悪いとか問題にしているんでしょう。続く。(衍)

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提唱集④

わかりやすく言えば、良いとか悪いとかの見方がそっくりそのまま外れていることさえ自分ではっきりできたらいい。(思いを)取り上げる、取り上げたら必ずどちらかの見方が必ずついてくる、起きるということ、すぐに。取り上げたということはそういうこと。だから取り上げる前の様子ね。
取り上げなくていいものを人が取り上げる。取り上げたら人は必ず良し悪しをつけたいもんだよ。そこだけ、急所は。

そういう意味じゃほんとにバカにならないと無理(笑
とことんバカにならないと無理。

生きてるんだか死んでるんだか、役にたつんだか、生活ができるんだかできないんだか、そんなことが問題になってたらダメだということ。
いままでの人間生活をどがえししてね、とりかかるということだけ。
その全部放っておくということがどがえししてやれるのかどうかというのが、力があるのかないのかということ。

でもね、培ったものってのは放しがたいんだよね(笑。(哲)

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質疑録③

問:あの、思いがですね、六官の一つに入っているということがありますね。この前、ご老師のお話なさったテープを聞いた時、思いが出てもそれが真実とおっしゃっていましたが…

老師:そう。想いが出たということが真実で、それはいいんです。ところが、それを私が使うからいけないので、思いが思いとしてただ動くというならいいです。ですが、〈私〉の上から、自我の上から分別心が出て使うからいけないのです(衍)。

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提唱集③

人とものとの関係において、いちいち、ものが現れ、現れては消え、消えては現れる。その様子が分かる。人間の従来の考え方を持って自分を守っておるということは、それだけ道から離れておることなのです。

五感(眼、耳、鼻、舌、身)というものは正直なものですから、その縁を縁のままに受けるんです。ただそのまんまに受けられるようなところまでゆけば大丈夫です。

ところが、私共はそこまで本当にいかんのです。縁に触れると、それにすぐ心がついて動いてゆく。そういう憂いがある。そういう点を大いに警戒しなくてはいけない(衍)。

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質疑録②

問:眼耳鼻舌身意の私(わたくし)と公(おおやけ)というところの差でございますか。ちょっとお話下さい。

老師:この眼耳鼻舌身意としてのこれを自分で認めるとこれを可愛がりたくなる。この私という道具を自分だと思って、これのためにあらゆる方法をもって可愛がろうとする。それが迷いである。なぜかというと、この道具は初めから知らんのに出来てた。自分ということすら知らん。そういうように公に出来たものを途中で、物心ついた時点において私のものという感じがした。その感じにだまされて行動を始める、これが迷いです(衍)。

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