キャバクラ豪遊の果てに。

三月と言えば年度末。
年度末と言えば異動。
異動と言えば送別会。
そんなわけで何かと飲み会が多い時期でもある。

 

先日は送別会の二次会で友人のお気に入りのキャバクラへ。
友人は数年前から追いかけている意中の子がいるらしく、当然その子をご指名。今夜こそは決着をつけようと果敢にアプローチを開始。
その甲斐あってかデートの約束を取り付けることに成功した。

 

悲願の大願を果たした友人は嬉しさの余りに調子に乗り始め、大幅な時間超過に継ぐ延長、そして女の子にワインの大盤振る舞いなどの強行(いや狂行か)を開始…

坐禅ヴィパッサナー瞑想を実践されている諸兄はお解りだろう。彼はマインドフル”レス”の状態であるw

 

そして時は日が変わろうとしていた。
だいやめは身に覚えのない高額のワリカンを「入鄽垂手」の境地で応ずるのであった…

ティク・ナット・ハン編

だいやめ座右の書的一冊

劇場公開が期待されるタイ師(ティク・ナット・ハン師)の「Walk with me」だが、現時点では日本公開は未定。どうもミニシアターでの上映になりそうな…

まあいずれにせよ、タイ師のご尊顔をシアターで見れるのは変わりはないわけで。

そんなわけで、第一回はティク・ナット・ハン師ものです。

 

まずはこれだろうか…

ブッダ<気づき>の瞑想・新泉社

マハーパリニッバーナ・スッタンタ(大般涅槃経)の
「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころにせずにあれ。」
仏教に親しみのある方ならご存知だろう。
そうお馴染の「自燈明・法燈明」のくだりである。

が、この後が実は重要で、
「では、修行僧が、自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころにしないでいるということは、どうして起こるのであるか?」
「アーナンダよ。ここに修行僧は、 身体ついて 身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いを除くべきである。」
と続いているのをご存じだろうか?
そうここから四念処の”身・受・心・法”が説かれるのである。

四念処経そのものの翻訳は中村元博士の原始仏典(中部シリーズ)や片山一良先生の中部経典で読むことはできるが、あくまでも翻訳に徹しており、具体的に何をすればいいのかの手ほどきはもちろんない。
当書は”その何をすればいいのか”をタイ師が優しく手ほどきしてくれる本である。

ちなみに現在、念処経の解説書はこれと前述の
片山一良先生著「パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ―『大念処経』を読む 2700円」

スマナサーラ氏著の大念処経 (初期仏教経典解説シリーズ 4212円)
しかない。

さて内容というと四念処経に大乗思想を加えての解説、実践となっている。つまり四念処+大乗思想が加わって、タイ師のマンドフルネスが出来上がっているのがおわかりかと思う。
もちろん原文も掲載されているので、釈尊がなんと説かれたのかも純粋に参照できる。
翻訳は優しい口調で定評のある島田啓介氏だが、禅僧でもある山端法玄氏も携わっている。

瞑想ブームではあるが、実は根本経典である”四念処経”やアーナパーナ・サティスッタ(安般念経)を読んでいない人を散見する。
ヴィパッサナーのメソッドだけが先行しがちで、何をしているのかが解っていない人もいるようだ。
そんな方へもお勧めする一冊でもある。
難解な表現等もなく、瞑想初心者でも十分読み進められるかと思う。

 

ブッダ<呼吸の瞑想>・新泉社

ブッダ<気づきの瞑想>に引き続き、二作目のこちらは呼吸の瞑想。
そうアーナパーナサティ・スッタ(安般念経)の解説書となる。

 

翻訳は前作と同様、島田啓介氏。
島田氏の翻訳はティク・ナット・ハン師の人柄を感じさせられ、まるで日本語で説かれているような錯覚にさえ墜ちること受け合いだ。

ちなみに最初は
「息を吸いながら、息を吸っていることを知る。息を吐きながら、息を吐いていることを知る」
ここからすべてが始まるのだ。

こちらも前作と同様、難解な表現等もなく、瞑想初心者でも十分読み進められる。
サティパッターナ・スッタ(ブッダ気づきの瞑想)とともにセットでどうぞ。

 

禅への鍵・春秋社

上記二冊は瞑想色が強いが、こちらはタイ師の本領?である禅のお話。タイ師の著作に触れて禅へ興味を持たれた方にはお薦め。タイ師が禅の何たるかを解説している。

訳者が上記二冊と違うせいか、かなり厳しい印象を受ける(訳は曹洞宗の藤田一照氏)。
外人向けに書かれているせいか、日本で言う禅的な匂いは感じられないと思う。
ロジカルに解説されているので、理屈で考えられる方は読みやすい一冊かと。

 

 

読書

恐ろしく本を買わなくなった。

ここ十年は月に一万は買っていたのに。

それもほぼ全部仏教書。

最近は本屋すら行かなくなった。

 

本を読むと何か隠された事実があるとか、奥義的なものがあるとか期待するんだよな。

 

確かにロジックでは理解できる。

が、それは考え方が整理されただけの話。

また高尚になることを目指すのではないわけで、それは最悪衒学的になる(これが多い)。

 

そして弊害もある。

書かれていることを探すようになる。

これが一番怖い(坐禅をされている方は痛いほどよくわかると思う)。

 

‪つまるところ本や提唱などで学んだらあとは坐るしかないんだよな。

それ以降はいくら読んでもわからない。

坐らないとわからない。‬

 

‪坐ることにより体が教えてくれる。‬

自燈明だな。

 

 

注)座右の書的なのはご紹介致します(^^;

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暇つぶし

〜人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないかがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。(パスカル)〜

数学者でもあり、物理学者でもあるパスカルの言葉だが、これを読んだ時はほんとその通りだよなと膝を打ったものだ。

 

人は休日などで暇になると…
・ネットを徘徊→衝動買いしてしまい、散財
SNSをする→他人の投稿から自分を比較し、傷心したり妄想にふける
・外出し、事故に遭う
・ウィンドウショッピングのつもりがリアルショッピングに発展→散財

また暇になると人恋しさも募ってくる。

・外出し、キャバクラで散財、さらに実らない恋の果実にも手を出す

と、まあ部屋でじっとしていれば何も問題はなかったものの、暇をつぶすつもりが「つぶされている」結果に(´・ω・`)アチャー


さて、”現代坐禅講義―只管打坐への道(藤田一照著)”という坐禅の指南書のような本があるのだが、この中で藤田氏はパスカルが存命中だったら是非坐禅を勧めたいと言っている。

そう、坐禅だとお金もかかることなく、前述の暇つぶしのように弊害があるわけでもなく…なんだな。

坐禅や瞑想って究極の暇つぶしなのかも知れない。

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宗論は釈迦の恥

真理という言葉の意味をご存じだろうか。
だいやめ的に真理とは
”普遍的な事実や客観的な事実”ってところか。

ちなみにググる
・判断内容がもつ客観妥当性。意味のある命題が事実に合うこと。
・論理の法則にかなっているという、形式的な正しさ。と書かれている。

 

例えば明日は雨が降るは真理ではなく、明日雨が降ることにより真理となり、明日晴れだったら誤謬となる。
まあ真理とはそんなものだ。


ところで、原始仏典で釈尊がこの真理について面白い言葉を残されている。

~ある人々が「真理である、真実である」というところのその[見解]をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」という。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争をする。なにゆえにもろもろの道の人は同一のことを語らないのであろうか。~
~真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。~(スッタニパータ)

Aという宗派(宗教)が真理であると説いていてもBという宗派(宗教)が真理ではないと説くのならば、それは前述で定義された真理ではなくなるんだな。真理とは普遍的客観的な事実だからだ。

 

とまあ実に簡単な話なのだが、上記のようにAという宗派は仰望し、Bという宗派は一切理解を示さないという方を古今散見する。
こういうのはまさに上記の釈尊の言葉通りの話で、それは個人の嗜好や執着だろうと思うのだがいかがだろうか。

 

Bという考え方も素晴らしいが、Aという考え方が俺には合うという姿勢が好ましく、不用意なテンションも招かなくて済む。また人の考え方をくみ取れるわけだし、相互理解にもつながると思うのだが…

 

自分の信仰よりも他者に寛容でありたいものだ。

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おめでとうございます!

般若経と言えば般若心経。
般若心経と言えば「空」。
その「空」が出てこない般若経がある。
金剛般若経&善勇猛般若経である。

 

金剛般若経は結構メジャー(と言っても在家にはマイナー)なのだが、それの上位互換版の善勇猛般若経はほぼマイナーな経典だった…

 

が、評論家で仏教「者」である宮崎哲弥氏が「無人島に持って行きたい本」と言わしめたことで、一気に脚光を浴びる。


内容は非常に硬派。
「空」という言葉を用いずにこれでもかと言うほどにありとあらゆる事象を解体し、「空」を説いていく。

~それゆえに、『あらゆるもの(法)は、仏陀の本質(法)である』と、如来は説くのである。なぜならば、スブーティよ、あらゆるもの(法)というのは、法ではないと、如来は説いた。だから、『あらゆる法は、仏陀の法である』といわれるのである(金剛般若経)~
とまあこんな調子だ。

 

”AはAでない。よってAである。”
という、一見「お前は何を言ってるのだ?」と言いたくなるような論理形式がこれでもかというほど繰り返される。

 

しかし、単調な言葉の繰り返しだけではない。
~この智恵の完成の説法が手にとどくほどの者であれば、彼らは善根を植え、良い意図を持ち、世尊たちのもとでなすべきことをなし、悟りを得るために仏の種子を植え、仏の道を進み、世尊たちに親しみ近づいて、根元から問いを発した者であろう。(善勇猛般若経)~

つまりこの経典を手にしたものは選ばれし者ということでもある。


なぜならば、
~実にこの経典は、善根の熟していないものには、耳に達することさえない。(善勇猛般若経)~
なのだから。


この本を手にしたあなた!
おめでとうございます!
あなたは菩薩だったのです!

歓楽街にて

私と同じバツイチで、非常にウマの合うR50の友人との会話。彼は富裕層で社会的ステータスもあり、非常にスマートで女にもモテるのだが…

 

だいやめ:土日独りでいることは至福だよな。独身バンザイ(ノ^^)ノ
友:それは絶対ウソだ!だいやめは寂しさをそんな強がりでごまかしてるのさ!
だ:ん?土日寂しいん?
友:独りで部屋に帰るの寂しいよ(´・ω・`)
だ:マジ!?それは意外だった!それなら女はいっぱいいるんだからテキトーなのと再婚すればいいじゃない?
友:あっ!!お前そんなこと言うの?
再婚したくない気持ち、だいやめもわかってくれているだろう?
だ:わかるよ。お前の再婚したくない理由は一人の女に落ち着きたくないだけだろうがw
友:お前は違うのかよ?
だ:違うよ。女などこの世からいなくなっても構わん。
友:ウソを言うなw!また強がりを言いやがって!
だ:さらに言うならば寂しいという思いがない。寂しいと言う状態が自分の中で説明がつかなくなったな…
友:またそんな強がりをwww

 

歓楽街の夜は更けて行くw

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