読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

宗論は釈迦の恥

原始仏典 雑談

真理という言葉の意味をご存じだろうか。
だいやめ的に真理とは
”普遍的な事実や客観的な事実”ってところか。

ちなみにググる
・判断内容がもつ客観妥当性。意味のある命題が事実に合うこと。
・論理の法則にかなっているという、形式的な正しさ。と書かれている。

 

例えば明日は雨が降るは真理ではなく、明日雨が降ることにより真理となり、明日晴れだったら誤謬となる。
まあ真理とはそんなものだ。


ところで、原始仏典で釈尊がこの真理について面白い言葉を残されている。

~ある人々が「真理である、真実である」というところのその[見解]をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」という。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争をする。なにゆえにもろもろの道の人は同一のことを語らないのであろうか。~
~真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。~(スッタニパータ)

Aという宗派(宗教)が真理であると説いていてもBという宗派(宗教)が真理ではないと説くのならば、それは前述で定義された真理ではなくなるんだな。真理とは普遍的客観的な事実だからだ。

 

とまあ実に簡単な話なのだが、上記のようにAという宗派は仰望し、Bという宗派は一切理解を示さないという方を古今散見する。
こういうのはまさに上記の釈尊の言葉通りの話で、それは個人の嗜好や執着だろうと思うのだがいかがだろうか。

 

Bという考え方も素晴らしいが、Aという考え方が俺には合うという姿勢が好ましく、不用意なテンションも招かなくて済む。また人の考え方をくみ取れるわけだし、相互理解にもつながると思うのだが…

 

自分の信仰よりも他者に寛容でありたいものだ。

広告を非表示にする