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時間についての独り言

時間についての独り言

我々は厳密にいうところの「今」を認識できない。
認識できるのは過去と未来、そしてそれは形骸化したもの、すなわち妄想と化している。よって”いまに気づく”などとよく聞くが、正確に言うならば誤謬になると思う。

そんな人間は今は認識できないが、今しか生きることができない。

今回はそのいまが連続したもの、時間。
その使い方についての考察。

 

時間というものは止められるものでもなく、預けられるものでもない。また逃げられるものでもない。よって我々は時間を「使わない」といけないわけだが、同じ使うなら「自分を使わない」時間に越したことない。

若いころは自我(我語取)が強いので、自分の時間=「自分の好きなことができる時間」と考えている。でも時間そのものには自分の時間、他の時間もないわけで、すべて自分の時間となる。遊んでいる時間、仕事をしている時間、すべて自分の時間だ。

 

この「自分の時間」というのが曲者で、坐禅に親しんでくると前述でいうところの「自分の好きなことができる時間」が疲れの原因でもあることがわかってくる。時間が余ると時間を潰す作業が必要になる。時間が余ったので捨てるということができないからで、あらゆる思考を駆使して時間を潰す作業をしている。長期休暇が余計疲れるのはこのせいだ。

 

さて、時間の使い方なのだが…

例えば、
・いつも車で行くところをあえて歩いて行く。
・掃除機を使わずに掃除をする。
・カットを野菜を買わず、野菜を切る。
・洗車機を使わずに洗車をする。

などなど、工夫すればいろいろ「時間を使う」ことができる。瞑想されている諸兄は上記の作業が瞑想対象となるのはおわかりだと思う。

 

結局、人間は手間を科学やお金等の力で省いているわけだが、実際のところ手間を省くまでもすることが多いわけではない。


手間を省くことで暇を作り、時間を余らせる必要はない。死んだ時間(我語取にとらわれる時間)、また妄想にふける時間を得ているだけではないかとつくづく思う。