怠るべからず

釈尊の一番弟子であり、二十五年間も側近を務めたアーナンダ。
彼は釈尊の説法を一番聞いていた人物でそれゆえに「多聞第一」と言われていた。
釈尊亡き後に、世尊の言葉を後世に残そうと当時の阿羅漢らが結集した。これが経典の起こりであり、第一結集と言われたそれである。
当然、アーナンダの参加を希望する声が多かったのだが、彼は阿羅漢果に達していなかった。

 

第一結集の前夜、アーナンダはいつものように瞑想に更けていた。行住坐臥、すべてに気づき(ヴィパッサナー瞑想)を怠らなかった。
しかし、朝方になっても変化なし。疲れ果て横になろうとした瞬間、アーナンダは阿羅漢果を得たのであった…。

 

なぜアーナンダが瞑想中ではない瞬間に阿羅漢果に達したのか。
この見解が実にさまざまだ。
ミャンマーの大長老、マハーシ・サヤドー師は自身の著である”ヴィパッサナー瞑想”の中で「悟りはいつ起こるかわからない。よって常にヴィパッサナーすべきである」と締めている。
でも阿羅漢果を得た瞬間はヴィパッサナーしていない時に起こったのであり、的を得た回答とは言い難い。

 

これは禅からだと説明しやすい。
ヴィパッサナー中は作為的であるが故に、阿羅漢果を得られなかった。横になろうとした瞬間、つまり無作為(ヴィパッサナーを止めた時)になった瞬間にはじめてアーナンダは「わかった」のである…。

 

とまあいろいろ解釈があるのだが、文献を見てみると坐禅や瞑想中に悟ることって実に稀なんだよな。それは釈尊ぐらいのものだろうか。アーナンダのそれのように、過去の聖人のほとんどが坐禅や瞑想中以外の時に悟っているのが面白い。

 

兎に角、いずれにしても怠るなと言っているわけだ。
世の中にはここからが本業、ここからが副業という考え方やオンオフなどと「思考」の上で時間を区別したりする。
しかし、すべては自分の時間であり、一生であり、その時間に本も副もオンオフもない。また人間は前回に書いたように「今」にしか生きれないのに。

 

求道者ならばすべての時間を懈怠してはならないのではないか。アーナンダのそれは思想を超えてそう説かれているのではないかと思うのだが。

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