運は開けるのか。

人は弱い生き物だ。自分の願望を成就するよう祈る。
そして自分の願望が成就するように、神に仏に祈る。運が開けるようにと開運グッズを身につける…
今回はこの運についての考察。

 

Aさんが開運ブレスレットを購入した。
その後、宝くじを購入、そして当選した。
Aさんは宝くじが当たったのは開運ブレスレットのおかげと言っているのだが…
果たして開運ブレスレットは宝くじの当選を導いたのであろうか?

 

実に単純なことなのだが、Aさんは「開運ブレスレットを買わなくて宝くじを買った結果」を見ることができない。そう「開運ブレスレットを買ったこと(人生)」を選択しているからだ。と、いうことは開運ブレスレットを買わなくても当たっていた「かも」知れない。
すなわち、開運ブレスレットにより宝くじが当たったことを導くことはできない(開運ブレスレット=当選は帰結しない)。

 

上述の通り、お守りや開運グッズがその効能を果たしているかは証明できない。これは神や仏への祈願も同じことで、祈願しなかった結果を見ることができないからだ。

ちなみにだが、釈尊は祈祷の類を禁じたのは有名な話。

「たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。そのとき、そこに大勢の人々が集まり来たって、「大石よ、浮かびいで よ。浮かび上がって、陸に上れ」、と祈願し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、汝はいかに思うか。その大いなる石は、大勢の人々の祈祷合掌の力 によって、浮かびいでて陸にあがるであろうか。

たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に、油のつぼを投じたとするがよい。そして、つぼは割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。そのとき、 大勢の人々が集まり来て、「油よ沈め、油よ沈め、なんじ油よ、水の底に下れ」、と祈りをなし、合掌して、湖の回りを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。その油は、人々の合掌祈祷の力によって、沈むであろうか。」
仏陀 サンユッタ・ニカーヤ 増谷文雄訳)

 
神社にはお守りが所狭しと売っているが、実はお守りの祈願の文言(交通安全等)通りに成就を期待するのではなく、その文言を見る度に「気づき」になればそれがお守り「代わり」になるのではないのか。「気づき」が最大のお守りではないかと思う。

 

そして何より、物事にあたりはずれはそもそも「ない」んだよね。

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