坐禅と瞑想は同じなのか。

誰でも一度は考えるんだよな。
その手の専門家や雑誌の特集でも禅・瞑想特集などとひとくくりにする場合も多い。

 

瞑想はさまざまな方法がある。そして坐禅もさまざまな定義があると思う。
例えば坐禅の基本でもある祗管打坐すら師家で指導がガラリ違う。
目指すところもよりけりで、ドーパミン全開の快楽を狙うのが坐禅と定義される方も散見する。

 

さて、この坐禅と瞑想は「同じである」ことの「同じ」の意味するものなのだが、部分的なものと到達するものとを検証してみたい。


まず部分的(形)なものだと共通するものがある。
例えば結跏趺坐や半跏趺坐を用いてやっている、半眼でやっている(もちろん閉眼もある)など。
*余談だが、ほとんどの瞑想の本には座る瞑想する場合の姿勢について語られているものがほとんどない。座って瞑想される方は近所にある禅寺で一度姿勢を見てもらうといいだろう。

すなわちパッと見だと酷似している。

傍から見るとどちらなのかわからない場合もあるだろう。

 

では坐禅中と瞑想中に何をやっているかだが、これは前述の通り、定義や指導、方法によってさまざまであり、同じとは言い難い。

 

そして、到達するところが同じというのもやはり疑問が残る。
到達するところが同じであるということを結論づけるには、到達しないことには帰着できない。

例えば、舟が二艘あり、その舟がそれぞれ到着するところが同じか否かは着いてみないとわからないのである。もっともその舟がどこかに到着することがなく、座礁するかも知れない。

すなわち、坐禅と瞑想が行き着くところも同じであるという論理は何ら信憑性があるわけでもなく、事実でもないわけで、そのようなことを論じるのは少し軽率であると言えよう。

 

坐禅の師家に尋ねるとほぼ間違いなく瞑想と違うと答えられる。
もちろん同じと答えられる方もいらっしゃるわけだが、その舟(思想、方法)を用いた結果どうなったかはその舟を用いた指導者、その指導者の系譜や弟子筋を見るのが一番確実なのかも知れない(ただ○○で修行したと標榜するだけで弟子すらいない場合が多い)。

預流果だの悟りだのの机上論ではなく、論より結果なのだ。

 

よその舟に気を取られることなく、自分の選んだ舟で信決定し邁進したいものである。
自分が瞑想を辞めて坐禅に戻った話はまた次の機会に。