気づきのブログ

本や気づいたことを書き留めております。

記憶と現実

我々は思い、記憶、そして現実のはざまで生きている。それをうまく切り替えられればいいのだが、思いと記憶を混同したり、現実に思いを付着させたりと五里霧中状態で生活していることに気づいているだろうか?

例えば、あなたは仕事帰りにプリンを買って冷蔵庫に入れた。そして自宅に帰り、風呂に入ってる時に「冷蔵庫にプリンがあったな。風呂上がりに食べよう」と思った。が、風呂を上がって冷蔵庫を見るとプリンがない。周りをよく見渡してみると美味しそうにプリンを食べている嫁がいた。

 

こんなことは日常でよく見かける光景だろう。
よく考えて欲しい。
仕事帰りにプリンを買ったのは事実だ。そしてプリンを冷蔵庫に入れたのも事実。
が、風呂に入っている時に「冷蔵庫にプリンがあった」という思いは事実だが、その思いの中のプリンは事実ではなく、記憶である。
風呂に入っている時には風呂に入っている事実があるだけで、風呂に入っている事実と「冷蔵庫にプリンが入っていたな」という思いはもちろんなんら関係がない。
(注:「思った」ことは事実である。)

 

我々はこの思い、記憶というのに実にだまされる。
まず買ったプリンへの思い。スーパーでお金を出して買った時点で、社会通念上での所有権はスーパーからあなたに移っている。でもそれは社会通念上、言うなれば空想の世界、言葉を変えると人間同士だけが勝手に取り決めしている約束事に他ならない。実質、プリンはあなたのものでもなく、誰のものでもない。仮にプリンがあなたのものであるならば、なぜ嫁がプリンを食べるのであろうか。プリンを買った時点でプリン=私のものという勝手な図式が出来上がっているだけだ。

そしてプリンが冷蔵庫にあるという記憶。もし冷蔵庫にプリンがあるという記憶がなければ、風呂に入り、体を洗うことに専念できただろう。つまり、記憶により現実(事実)を逃避しているとも言える
風呂に入ってる時、あなたの目の前にプリンはない。あるのは風呂の中の景色、音だけだ。プリンは記憶の中にのみ存在するのである。

 

禅の老師はこういうものの見方(本来の見方。正見)を口酸っぱく説かれる。
ここを徹底的に説いた提唱となるのが、坐右の書”第四弾”でもある井上貫道老師提唱録である。媒体はkindle版とオンデマンド版がある(オンデマンド版は貴重)。

 

見所は三つ。一つは普段我々が気づかない前述の思いや記憶を例に正見の提唱。二つ目はこれを機会に坐禅に興味を持たれた方向けに坐禅の仕方が巻末に添付してある。三つ目は決着した(脱落した)後のことがチラッと触れられている。

 

もっと足を踏み込みたいと思ったのならば、正法眼蔵道元著)の提唱となる「げんびーに」がお勧め。私的には世界屈指の坐禅の指南書だと思う。内容は曹洞宗僧侶向けの提唱をまとめたもので比較的に高度となるが、難解な言葉や表現もないので初学の方でも大丈夫だろう。いままでは私家版だけだったが、ようやくkindle化したようだ。
ちなみにどちらも老師が執筆したものではない。あくまでも提唱を書き起こしたものである。

 

釈尊もそうだが、過去に聖人と言われた人物のほとんどが自分の言いたいことを記録として後世に残していない(本を書いていない)。
原始仏典もすべて弟子が法話を書き起こしたものである。

 

なぜ悟者は本を書かないのだろうか?面白いものだ。