気づきのブログ

本や気づいたことを書き留めております。

慢心

坐禅でも瞑想でもそうだが、なんの世界でも初学のころには驕りがない。
が、少しできるようになると驕りが出てくる。
「何ものかになった私」「できる私」になるのだろう。

 

自分も初学のころは何もかもが勉強だった。
が、少し解ってくると、「そんなこと知っとるわ」「その話は飽きた」となってしまう。最悪、他人まで評価したりする。
驕り(慢心)である。

 

さてテーラワーダでは煩悩を「十結」で表すようで、五下分結と五上分結、五+五=十結となる。
この十結が解脱するまでに落ちていくわけだが、阿羅漢の前の不還果までに五下分結(有見身、疑、戒禁取、貪欲、瞋恚)が落ちる。
そしてゴールの阿羅漢で五上分結が落ちるわけだが、その五上分結の内容はというと色貪、無色貪、掉挙、無明、そして今回の話題の慢…なのである。
これを見る限り、怒り(瞋恚)より強い煩悩のようだ。

自我が有ると考えるのはもちろん無明からだが、漫があるのは自我が有るという無明の上で踊らされているわけで、無明のさらなる愚行と言えるだろう。

 

さて、なんとかこの慢を減らしたい。
タイで出家した日本人僧侶、プラユキ師が慢心について以下のようなtweetをされている。
https://twitter.com/phrayuki/status/854859423314886656

なるほど、道端のゴミ拾いは気軽にできそうだ。
ゴミ拾いは利他行そのものでもあるわけだが、「なんで他の人が捨てたゴミを俺が?」とか「汚い!」となると分別度はかなり強いのではないだろうか
だいやめも会社が借りている立体駐車場に停車する時にタバコの吸い殻等拾っているのだが、時折公衆便所に見られる「これでもか」とぶちまけた〇痢の掃除を今度やってみたいと思っている。

 

もちろん慢心に悩む方は「気づいている」から手の施しようがあるが、それすら「気づいていない」のは厄介ではある。
httphttps://twitter.com/phrayuki/status/854859423314886656s://twitter.com/phrayuki/status/8548594233148866