気づきのブログ

本や気づいたことを書き留めております。

生きとし生けるものを救済せよ

だいやめは坐禅や瞑想ばかり書きやがって密教は書かないのかと誰も思ってはいないと思うのだが、たまには密教ネタを。

 

仏教論書の世界最高峰いわばエベレストは中論(ナーガルジュナ著)だろう。これに異論をはさむ方はいらっしゃらないかと思う。中論を思想的・論理的に捉えるならば、難解中の難解だろう。が、八正道を歩み、ある程度実践しているとなんとなく書いてあることが理解できてくるように思われる。

 

本書はダライ・ラマ法王(以降敬称略)がその難書を一般人向けに説いた法話を書き起こしたものなので、非常にわかりやすい。今回はその中でも実践者に馴染みの深い句を転載してみた。また同句の中村元博士の訳も引用した。

 

まずは十二支の考察から一つ。(中論 第26章-11)

  • 【「無明」(根源的無知)を滅したなら「行」(行為)などのすべても生じない。「無明」の断滅は{縁起という}真如を知って、それに瞑想することから得られる。】(ダライ・ラマ/マリア・リンチェン訳)
  • 【無明が滅したとき、もろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない。しかるに無明を滅することは、知によってかの〔十二因縁の〕修習(連続的念想)からくる(注:中論は縁起の逆観を成立せしめていることがわかる)。】(中村元訳)

十二支縁起は無明から始まり…だが、この無明をなくすることができれば、以降は連鎖しなくなる。
では無明をなくすためにはどうすればいいか。ダライ・ラマはこう答えている。
「私達が、すべてのものに実体があるという考えに今までずっととらわれていたのは、無明のせいであり、実はそのような実体は存在しないのだということを確信することが必要です。」
そのためには法話を聞いたり、本を読んで考えたり、瞑想では不十分と説かれており、ではどうするかというとそれは読んでからのお楽しみということで(おいおい)。

 

続いてアートマンの考察より(第18章-4)

  • 【内にも、外にも「私」と「私のもの」という思いを滅すると執着(取)がなくなる。これが滅すると、〔輪廻に〕生まれることはない。】
    (ダライ・ラマ/マリア・リンチェン訳)
  • 【内面的にも外面的にも〈これはわれのものである〉とか〈これはわれである〉とかいう観念の滅びたときに執着はとどめられ、それが滅びたことから生が滅びることになる。】(中村元訳)

これはタイのプッタタート師も同じようなことを口を酸っぱくして仰っている。
「涅槃とは滅亡すること。何が滅亡したのかと言えば、ただ執着していた感覚である「俺、俺の」が滅亡することです。」

アーナーパーナサティの完全技法と自然法

余談だが、プッタタートはダライ・ラマをタイ(スワンモーク)に招聘、法話を行っている。また中観思想にもかなり好意的な見解を示したようだ。結局、テーラワーダ、大乗(密教)の違いはあれど、やってることは同じなんだよね。

 

さて今回のブログのタイトルについてしばし論考。
大乗仏教の根幹は他者救済にあると言っても過言ではない。
この中論は上記のように己の修行についても言及しているし、他者救済についても言及している。
文中でダライ・ラマは以下のように語っている。
”智慧に伴われて、他のすべての有情たちを助け、何とかして利他の行いをしたいという深い気持ちは、人間だからこそ育むことができるのであり、他の生き物たちにできることではありません。
これこそ、人間とは本当にすばらしいと思える所以です。(中略)

そして、

”ツォンカパが述べられているように、利他をなそうという動機を持って進んでいけば、自分の目的はその途中で自然と達成されてしまうものであり、これは賢者の考えかたなのです。”

ほとんどの方は自身の修行を念頭に捉えがちだが、それよりも他者救済に没頭していると、いつの間に自分の目的(修行)は達成されているという。
なんと素晴らしい!一石二鳥ではないか!

私的意見なのだが、慈悲の瞑想が流行ってはいるものの、ある程度養われてきたのならば実践(行動)されたほうがいいように思われる。所詮は言葉に頼っているわけで、それ(有・bhava)から離れることができないのではと思う(タイのアーチャン・チャーも慈悲の瞑想は初歩的なものと仰っている)。
簡単にできる実践は以前もご紹介したこちらとか。

https://twitter.com/phrayuki/status/854859423314886656

他者のことを考えるとき、普通は自分を立てて相手を見ている。ところが面白いもので純粋に相手のことばかりやっていると、自分が建たなくなってくる。それは自分を顧みることがないわけで結果的に「俺、俺の」がない状態に達しているのではなかろうか。


法話自体は2006年南インドで行われたカーラチャクラ灌頂の際に行われたものである。チベット本土からも「もしかすると人生で最初で最後の機会になるかもしれない」との思いで多数の方が来られたようだ。
本書の最後に「チベットに戻ったら、私の話をしっかり伝えて欲しい。この場に来れなかった多数のチベットの方達のために」とのダライ・ラマの愛情が実に心に沁みた。

ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章

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龍樹 (講談社学術文庫)

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論書・他 (現代語訳大乗仏典)

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