気づきのブログ

坐禅、瞑想、仏教について書いてました。H30年6月で当ブログ終了しました。今後は当時の手記のみ更新予定です。

マスターヨーダ?

スターウォーズを知らない方は少ないと思うが、ジェダイにせよシスにせよ、その教えというのは一対一で相承される。クワイ=ガン→オビワン→アナキンのように。
禅も然りで、こちらも一対一で師資相承される。老師は弟子のレベルに応じて、対機説法し、そして事実の世界(不立文字)へ導いて下さる。スターウォーズって禅が元ネタになっているのではと思うほど、師弟関係がうまく描かれていると思う。
そういえば「スターウォーズと禅」という本があったな。

 

さて、やっと日本で「walk with me」が公開された。全国ロードショーとまでは行かないが、これまでの長い長い道のりだったので喜びもひとしおである。下記に予告編のリンクを張って置いたので、ご覧下さいませませ(お弟子さんのマスターヨーダ?の台詞のあとのティク・ナット・ハン師(以降タイ)の微笑みが実に( ・∀・)イイ‼)。
そんなわけで、今回はタイの著作でも読み応えのある「禅への鍵」の所感などを。
翻訳は米国で禅の布教師の経験を持つ、藤田一照氏。藤田氏は布教に行った際、米国はマインドフルネスのブームだったらしい。そこで当時日本では聞きなれない言葉、マインドフルネスを知ることになる。ここらの回想録は山下良道氏との共著「アップデートする仏教」に書かれている。

 

ところでマインドフルネスで瞑想に興味を持ち、ベストセラーの「ブッダ 気づきの瞑想」などを読んでタイを知る方は多いのではないだろうか?
タイの瞑想(マインドフルネス)はアーナーパーナ・サティ・スッタ(安般念経)や大念処経(マハーサティパッターナ・スッタ)をベースに大乗解釈を加えたものが特徴だろう。
(よって上記の経典を釈尊の言説と捉えるならば、タイの瞑想はかなり釈尊が行っていたそれに近いことになる。)だいやめもその一人だったわけだが、そういうルートでタイを知られた方がこの本を読むとおそらく面食らうだろう。残念ながらこの本はマインドフルネスを説くタイの姿はなく、本来禅者であるタイの姿を見ることができる。
(余談だが、ベトナム大乗仏教国。近隣のタイ他は上座仏国だが、ベトナムにもテーラワーダの教団は存在するようだ。タイ仏教に禅のテイストを感じるのは歴史的にベトナム禅の影響を受けているからであろう。)

 

内容は大乗思想、中観思想、唯識、そして臨済僧らしく巻末に禅問答などあり、かなり読み応えあり。特に禅者にはお馴染み?の金剛経(ヴァジュラッチェーディカー・プラジュニャーパーラミター・スートラ)からの引用が多数見られる。

例えば、
「禅を修行する前は、川は川であり、山は山であった。禅を修行したときには、川はもはや川ではなく、山はもはや山ではないと見た。しかしいま、私は、川はふたたび川であり、山はふたたび山であると見る。(禅への鍵より)」

こんな調子だ。なんとも不可解、意味不明、お前は正気か?何を言ってるのだ?と思う諸兄がほとんどだろう。言葉尻で捉えると( ゚д゚)ポカーンとなってしまう。
実は原始仏典で説かれる釈尊の教理は真理(事実)の立場から説明した勝義諦と一般世間の慣習に習ったものの見方(言葉等)から説いた世俗諦に分けられる。いうまでもなく、釈尊が決着をつけた(悟った)境地は本来言語不能な事実(勝義諦)。この世のもの(一切)の本来の姿は無相なわけで、記述ができない。詳細は割愛するが、文字や言語が成り立たない世界だから不立文字とも言われる。
釈尊が悟った後にその内容を語ることを躊躇ったのはまさにここにあるのだろう
一方の世俗諦は我々が信じてやまない無明の世界。例えば、ある植物が特徴のある赤い花びらがついて、その茎に棘がついて…などなどの外観を持つのであれば、それは「バラ」と我々は定義し、言葉、文字にしている。これは一般的かつ社会慣習的になっているわけで、これをバラと我々は疑うこともない。そして残念なことにほとんどの人間は自分が無明と気づくことなく、バラをバラと疑うこともなく人生を終えてしまう。

 

ちなみに大乗仏教の八宗の祖であるナーガルジュナは代表作の中論の中で釈尊の教説を以下のように解説している。

  • 八  二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。【その二つの真理とは】世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。
  • 九  この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。
  • 十  世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。(中論 第二十四章より 中村元訳)

すなわち前半のくだりの「川は川であり、山は山であった」は世間一般的な世界でのものの見方(世俗諦)。そして「川はもはや川ではなく、山はもはや山ではないと見た」は釈尊から観たそれ(世俗でいう川、山)であるんだな(勝義諦)。こういう意味不明の言い回しはこれでもかというぐらい出てくる。

本来(事実)は不立文字だが、記述不能だからと言って文字にしないことには人に伝えることができない。そこである程度は言葉や文字を使って説明し、坐禅などのメソッドを使って不立文字の世界を誘うわけだが、上記の通り文字に起こすとほぼ間違いなくおかしな文面になるのがおわかりいただけただろうか。もっともここに禅者タイの苦労が垣間見える。

 

ところで、仏教クラスターで世俗諦(世間話)で話しているときに勝義諦(いや極論か)を持ち出して話の腰を折る方を時折みかける。
例えば子供の名前を何にしようか楽しく会話しているところに、「所詮、無我だし、空だから名前はいらないし、何でもよい」とか(^^;
確かに人間に確固たる自性は見当たらない。かと言って名前は不必要かというと名前がなければ社会性を放棄することになるわけで、秩序は困難を極めるだろう。混同、乱用は避けたいものである。釈尊のように対機説法を心がけたい。

 

[おまけ]
四念処(涅槃経より抜粋)
「それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
では、修行僧が自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころととしないでいるということは、どうして起こるのであるか?

  • 「アーナンダよ。ここに修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。」
  • 感受について感受を観察し、 熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。」
  • こころについて心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。」
  • 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。」

 

 

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スター・ウォーズ 禅の教え エピソード4・5・6

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