気づきのブログ

坐禅、瞑想、仏教について書いてました。H30年6月で当ブログ終了しました。今後は当時の手記のみ更新予定です。

提唱集⑰

「この法は、人々の分上にゆたかにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」道元 弁道話より) 

 

こうだと言って決めるようなものは一切ないですよ。
ないんだけど、今のところは「パンッ(机を叩く)」、間違いなく確実「パンッ」、に決まっている。決まりながら跡形がない。跡形がないながら触れたら必ず決まる、そういう活動体です、これは(自分の体を指して)。

それを実践する、修行する、「本当にそうだ」と気がつくようになっている。

だから修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし
修するという言葉があったり、悟るという言葉があったり、気づくという言葉があったり、いろいろ言葉がありますが、本当に自分で胸落ちするってことですよ。
でもそういうことを知っている人がいる間は眺めてます。自分を。

その眺めている人がいないところまで体の全機能任せてごらんなさい。知っている人が必ず消滅するんです。
その真っただ中にいる人は気づかないってことですよ。真っただ中にいる時は気づかない。

よく話すんだけれども、熟睡したという時に熟睡してる時は気づかない。じゃあいつ気づくんですかというと朝目が覚めた時に気づくんでしょう。
気づいた時のことに用があるのではなくて、気づく前の様子が大事だということでしょう?
本当に熟睡できていたということは、気づく前の様子でしょう?
違います?知ったから熟睡したのではないですよ。
もう少し言えば認識、目が覚めた時に認識が動いてそこで自覚ということがあったということ。それを修と言ったり、悟りと言ったり、解脱と言ったり、確証を得たりといろんな表現をしています。

よくいろんな方がこの本はわかりやすいと送って下さるんですよ。ぱーっと開いてみたら悟りを開くにはどうしたらいいかと書いてあるんです。いっぱい線をひっぱって送ってきてくれました。この本わかりやすいから読んで下さいって。
全部知ってるんですよ。自分がどんなになっていったかを。状況を。
だからものと一つになりましたと言っているけど、ものと一つになりましたということを知っている。だからまだ人間の考え方から離れてないっていうことだよね。(井上哲玄老師)

 

禅 もう迷うことはない!―あなたの疑問を即快答

禅 もう迷うことはない!―あなたの疑問を即快答