気づきのブログ

坐禅、瞑想、仏教について書いてました。H30年6月で当ブログ終了しました。今後は当時の手記のみ更新予定です。

正しく坐る。

坐禅で一番大事なことは正しく坐禅できているのかにつきる。正しく坐れていないのであれば形だけの坐禅に他ならないわけで、ただ坐ってむやみに時間を過ごしていることにもなるだろう。

正しく坐禅できているのか否かは正師を探し、見てもらう必要がある。人間はそもそも自分を見ることができないわけで、我流だと上手くいってるいってないがまずわからない。最悪、東に行きたいのに西に行っているかもしれない。 禅師(道元)は正師の元以外で坐禅するなとさえ警告されている。

ちなみに正師の定義は
「若し無上の仏道を学ばんと欲はば、遥かに宋土の知識を訪うべし、迥に心外の活路を顧みるべし。正師を得ざれば学せざるに如かず。夫れ正師は、年老耆宿を問わず、唯だ正法を明らめ、正師の印証を得るなり。文字を先とせず、解会を先とせず、格外の力量有り、過節の志気有り、我見に拘わらず、情識に滞らず、行解相応す、是れ乃ち正師なり。」(道元 学道用心集より)

禅師は当時の日本に正師が不在とし、宋(当時の中国)まで行って正師を探している。はなはだ頭が下がる思いである。その苦労の結果、天童山の如浄禅師とご縁があり、如浄禅師指導の元で決着をつけ日本に帰国した。
また、
「さらに草鞋を買来買去して、正師をもとめて嗣法すべし。」(道元 正法眼蔵より)
とあるように正師とはそれだけ得難い存在なのである。
(余談だが、世の中には二通りの印証がある。一つは本山で修行をしたという証。いわゆる卒業証書のようなもの(寺院開業に必要)。もう一つは上記に書かれている正法の印証。どちらが重要かはいうまでもないだろう。)

さて、正しく坐れるようになると、いろいろな疑問や思いが去来するだろう。
これだと思ったり、つかんだり…これを書き留めておく。
そして定期的に禅会に行く。

そこで書き留めたものを独参で正師にたずねる(参師聞法)。
なぜか。
一人で坐っているとつかんだものやこれだと思ったものを大事にしてしまう。そのものに「自分勝手に」解釈をしてみたり、それを真髄などと勘違いしてしまうから(無我だの空だのサマディなどとにかく勝手に解釈してしまう)。

「得た法(ダンマ)と得た人がある、まさに大病なり。」
正師とは釈尊が医王と言われたように大病を治療してくれる医者そのものだろうな。

弟子:質問です。サマディに入ったのですが…
老師:そうか。ところで朝飯は済ませたのか?
弟子:済ませました。
老師:では食器を洗っておきなさい。

 

 

道元 「小参・法語・普勧坐禅儀」 <全訳注> (講談社学術文庫)

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禅ー世界を魅了する修行の系譜ー(サンガジャパンVol.27)

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The・禅―ダルマは世界を駆ける

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