気づきのブログ

坐禅、瞑想、仏教について書いてました。H30年6月で当ブログ終了しました。今後は当時の手記のみ更新予定です。

LINEでの会話を転載しました。

悟りというものは現在不満足があるから存在するものだとつくづく痛感しました。
いわば病人が健康の存在を考えるようなものかなと。
現在、いやこの瞬間に満足できる人ならば悟りというものは存在しないです。
これが心底徹底できると不満足も満足もなくなります。
健康な人が健康を考えないのと同じです。

 

この世のすべてのものは完璧です。
手のつけようがありません。
カアカアはカアカアで完璧ではありませんか(言うことがない)。
満足も不満足もありません。

 

不満足の発生元は思考(習慣的無意識)です。思考の上でのみ不満足が存在します。
すなわち″欲しい″、″したい″(悟り、解脱も含む)などの思いがあるのならば、不満足があるわけで今に親しくないことにもなります。とにかく坐りまくりましょう。

 

また修行中はtwitterSNSで発言するのは控えたほうがいいです。
分別の正体は言葉です。
言葉があるから我々は思考する、思考ができるんですよ。どんな正論でも所詮は言葉にすぎません。わかるのを漢字で書くと「分かる」です。分けていること(分別)になります。
とにかくこれから離れなくてはならない。
他人の発言も読むのも分別、それに応答するのも分別です。とにかく言葉を相手にしてはいけません。老師が修行中はしばらく本を読むなとか、長期摂心で修行者同士の話を禁ずるのも当然のことだと思います。

そしてなんといっても自我(エゴ。私があるという前提。無明)を強めます。
エゴがない人間は言うことがありません。聞いてるだけです。
我々はいままで生きていた習慣で思考主体=自分という習慣的無意識ができあがってます。それに気づくことなく、発言しています。そして自分の発言に対してフォロワーのリアクションを待っているのならば重症です。自我を強化しているわけですから。
SNSの怖さはこれです。

ところが、思考主体=自分ではないと見切ると発言は不毛に感じるはずです。
これは坐禅やヴィパッサナーでわかるはずです。
(日常生活における会話はこの限りではありません)。
これに気づいた方は過去に何人かいらっしゃいまして、丁寧なご挨拶を最後にSNSを辞めていかれました。まして老師がSNSをしないのは当然かと思います。


twitterSNSする暇があるなら、目の前の仕事をする、坐禅する、とにかくいまの自分に親しくしたほうがいいです。修行中だけでも。
そういう方は何人かいらっしゃいます。

 

そして、ほとんどの方はこの状態になると安心(あんじん)して坐禅を辞めるのでしょう。安心すると何ら求めなくなりますから。